古代の地中海は、さまざまな文明が出逢い交差する、まさに文明のアリーナとも言える豊饒の海であった。ギリシア人やローマ人に先立ち、果敢にもこの地中海の大海原に乗り出し各地に入植の拠点を次々に築いていったのが、交易の民として名を馳せるフェニキア人である。巧みに船を操り、各地で仕入れた品物を転売しながら売りさばく中継交易に従事した彼らは、だが単なる仲買商人ではなかった。染色や織物、さらには金属加工や象牙細工に秀でた有能な職人集団でもあったのだ。モノを運ぶだけではなく、モノを創りだすことができる、そこにこそ彼らの強みが隠されていたと言えよう。

そもそも、フェニキア人という名前は彼ら自身が自らを名乗ったものではなく、彼らと邂逅したギリシア人がそのように呼んだものである。この言葉はもともとは赤紫の染料の色を表わしているとされ、それは彼らが扱った交易品の中でも極上の織物の色そのものだった。ソロモン王がエルサレムに建てた神殿を飾るためにフェニキアの都市テュロスから派遣されたヒラムは、優れた細工職人であったと同時に深紅や青や緋色の織物にも詳しかった(『旧約聖書』「歴代誌下」2章)。また、トロイのプリアモス王の妃、ヘカベのきらびやかな衣装を織り上げたのは、王子パリスが連れてきたフェニキアの都市シドンの女たちであったこともよく知られている(『イリアス』第6歌)。

このように見事な色に布地を染め上げる技術は、実はフェニキア人の専売特許であった。ローマ時代の博物学者プリニウスは、この染色の工程に塩が使われたことを記している(『博物誌』第9巻62章)。塩には色落ちを防ぐ効能があり、おそらく染料を繊維に定着させる目的もあったのだろう。巻貝の一種であるムーレックスの体液を抽出して、そこに塩を加え3日間ほど置く。次にそれに水を入れて約9日間煮詰めて上澄み液だけをとり、そこに羊毛や布地を浸し、お気に入りの色合いに変色させる。太陽の光のもとで乾かすと、それは古くから「テュロスの紫」として珍重された鮮やかな色に染め上がるのだ。この色のもとになる貝の粘液物質はごく微量であるために、わずか500グラムにも満たない染料をつくるのに数万個もの貝が必要であったと言われている。フェニキア産の織物が交易品の目玉であったことも、これで納得できよう。

一方、塩は本来、貯蔵や保存などの目的でも使われた。地中海周辺で盛んに行われた塩漬けの魚や調味料としてのガルム(魚醤)の製造にも塩は欠かせない。ガルムは今日なお、われわれの食卓にも馴染みある調味料である。フェニキア人の入植拠点の周辺には現在でも塩田の風景が広がっており、彼らの生活が塩と密接につながっていたことを髣髴とさせる。

ゴゾ島(マルタ)・ソルトパンの塩田風景

フェニキア人の入植拠点であるモティア島の対岸にあるシチリア(イタリア)・トラーパニの塩田と塩の山

 

こうしてみると、交易の民フェニキア人が各地に伝えたさまざまのインスピレーションやノウハウは、現在のわれわれにも続いていくものであったことを改めて感じさせられるのである。

佐藤育子(日本女子大学学術研究員)

参考文献:『古代オリエント商人の世界』H・クレンゲル(江上波男・五味亨訳)、『通商国家カルタゴ』栗田伸子・佐藤育子

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