「貧乏人は死んでしまえ 生きることはない / 彼はパンを見つけても塩がない 塩を見つけてもパンがない / スパイスを見つけても肉がない 肉を見つけても器がない」。「もし(あまりに)甘いなら塩を食べよう / もし甘くないならムンズル草を食べよう」。

これらは、前2千年紀のはじめにバビロニアの都市ウルやニップルの書記養成学校で教材として採用されていたシュメール語「ことわざ」集に載せられていた。ただ、もし第一のことわざがパンの製法でなく食べ方を問題にしているのであれば、その具体的な内容は、私たちにはいまひとつあきらかではない。いっぽう第二のことわざで塩と対比されている植物は、甘味のあるマメ科カンゾウ属の草と比定されているから、このことわざの意味はよくわかる。

古代メソポタミアではシュメール語やアッカド語が楔形文字で粘土板に記され、すでに100万枚に近い楔形文字粘土板が出土しているであろう。ところが、人々の日々の生活に欠くことのできない塩についての記述は、楔形文字テキストではさほど多くない。メソポタミアの人々にとって塩はあまりに容易に入手でき、また日常の調味料であったために、公的文書の記述対象とはされにくかったのだろうか。

オットマン帝国末期のイラク、つまり古代メソポタミアの地での塩の産地について、あるヨーロッパ人が報告書をのこしている。それによれば、19世紀末には、イラク各地、ウルクやウルといった古代遺跡の近くにも塩湖などがいくつも点在していて、それぞれの産出地での製塩、運搬と販売が特定のアラブ部族に委ねられていた。おなじような状況を、はるか昔、メソポタミア時代にも想定してよいかもしれない。また前21世紀末のシュメール行政文書には「塩の丘の耕地」と直訳できる地名もあらわれる。おそらくこれは、「塩化耕地」つまり土壌に塩基物が堆積しているためほとんど放棄されてしまった穀物耕地を指すのではなく、塩が露頭し、塩が容易に採掘できる土地のことを指している可能性がある。なお南部メソポタミアでは、前3千年紀の後半以来、耕地での塩化が進み、生産力が低下していた。

前2千紀の前半に成立したシュメール語彙リストには、「湿った/水溶(?)塩」、「結晶(?)塩」など計6ないし7タイプの塩が言及されていて、これらのうちいくつかは、製塩に関わる語であるかもしれない。

塩は、薬として用いられるばあいに、テキストにしばしば言及される。そのもっともはやい例は、おそらくウル第3王朝時代(前21世紀末)に書かれたシュメール語粘土板での記述であって、ここではさまざまな薬用草木とその処方と並んで、塩も言及されている。それぞれ前2千年紀、1千年紀に書かれた2枚の料理レシピがのこっているが、不思議なことにここでは塩は言及されていない。もちろん肉や魚などの食物素材が塩漬けで保存されていたことは、よくわかっている。また、ウル第3王朝の首都ウルの貴金属加工の工房でも塩が用いられていた。

私たちが知るかぎり、メソポタミアの長い歴史のなかで塩と塩販売を古代メソポタミア国家が統制あるいは独占していたという証拠はない。ウル第3王朝のために働いていた「商人」たちの商品リストにも、塩はほとんどあらわれないのである。前18世紀前半、ディヤラ河流域地方で繁栄した都市国家エシュヌンナで発布された法典冒頭で、銀1シェケルについての油、ラード、瀝青、羊毛、塩、アルカリ、銅の公定価格を規定している。銀1シェケルあたりの諸物価は、同時代の南部バビロニアの勅令や王碑文でも言及されることがあったが、そこでは塩はあらわれない。またエシュヌンナ法典での塩の価格は、前代の南バビロニアでのそれとくらべて、かなり高いようにおもわれる。エシュヌンナが塩の産地から遠く離れていたとは考えにくく、なぜ塩が統制の対象となっていたのか、よくわからない。

前3千年紀のシュメール時代には、神殿や王宮で働く人々に食料などが定期的に支給されていて、それらの支給リストが多くのこっているが、支給品のなかに塩は含まれていない。またシュメールの地と諸外国に往還する外交使節などにたいして与えた食料リストにも、塩はけっして言及されない。だから、ウル第3王朝時代、第2代王親衛隊の兵士たちに塩を与えた記録や、ある役所スタッフの日々の食事作りのためにスパイスと並んで大量の塩などを準備したテキスト類がのこっているが、これらはきわめて例外的な情報源なのである。

前川和也(京都大学名誉教授、国士舘大学イラク古代文化研究所共同研究員)

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