人々の暮らしに欠かせない塩だけに、都市の建設には塩の生産と供給が不可欠だった。中世以来、海の都として地中海に君臨してきたヴェネツィアも、塩の観点から見ると実に興味深い。

アドリア海の奥深くに、都市ヴェネツィアが誕生する以前の話である。このあたりに広がるラグーナの浅い海は、ローマ時代から船の航行が多かった。6世紀に、ビザンツ帝国の皇帝に仕えるカシオドロという人物が、ヴェネツィアの島に漁と塩焼きで生計を立てる人々が鳥の巣のような家に分散して住んでいることを手紙に書き残している。塩の売買はこの地に住む人々にとって、早くから重要な産業だった。

船を操る術にたけ、東方の海に出やすい恵まれた立地をもつヴェネツィアは、やがてビザンツ世界、イスラーム世界との交易で富をなし、華麗なる海の共和国に発展した。大きな都市に成長したヴェネツィア市民の生活を支える食料の多くは、まわりに広がるラグーナの島々や水域から供給された。野菜はサンテラズモという島が特に知られ、今なお旬のカルチョーフィ(朝鮮アザミ)などで人気を集める。ワインも島々でつくられた。魚は、ラグーナの開かれた水域に加え、中世から水環境を活かして登場したヴァレ・ダ・ペスカという養魚場から供給された。そこが狩りの場でもあり、鴨が動物性蛋白質をもたらしたのだ。

一方、塩もまた、中世にはもっぱらラグーナ内で生産されていた。現在のリド島の中南部に位置するマラモッコと、ラグーナ南端のキオッジア島の間に集中する傾向があった。製塩業の最盛期、13世紀には、ラグーナ全体で119もの塩浜が存在したという。幸い、16世紀中頃にC.サバディーノによって描かれたキオッジア島の地図があり、そのすぐ東にきれいに区画割された塩田の姿が見られる。同時に、漁師町であるこの島の北の一角に、塩の倉庫があったことも知られる。島のアイデンティティとも言える塩の博物館がこの地に設けられているのも嬉しい。

その後、塩の生産拠点がダルマチアやイストリア、イオニア海の島々へと移転し、14、15世紀の間にラグーナの塩田は姿を消した。しかし、ヴェネツィアが東方での植民地を失った後、またラグーナに塩田が復活する。実際、19世紀末の地図には、ラ・サリーナ周辺に塩田が広がっているのが見てとれ、1913年まで製塩業が続いていたことが知られる。合理的な生産システムから生まれるグリッド状の幾何学模様がまたラグーナの水風景に彩りを添えていたのである。

陣内秀信(法政大学特任教授)

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