ニューギニアは、西側がインドネシア、東側がパプアニューギニアに属する島である。島とはいえ、広大な面積をもち、最高標高が4,000mを超える山脈があるため、島内での地域的多様性が高い。1960年代以降、日本の学術調査隊が入り、素朴な社会における塩作りの事例が報告されている。ニューギニアは島なので、もちろん海岸沿いでの製塩はおこなわれていたが、内陸の高地部における製塩の事例を紹介したい。モニ族の事例は、一般向けの本でも紹介されているので、ご存知の方もいらっしゃると思うが、内陸に居住しているので、海水ではなく、塩泉を利用している。

モニ族は、西側のインドネシア領の中央高地に居住している。彼らは、サツマイモやブタを育てる農耕民である。塩を作るには、塩泉に草木を浸し、これを乾燥させ、火を付けて灰にする。その灰の中から、結晶化した塩を集め、大きな葉の中にまとめて、塩の塊を作る。根気のいる作業を要することもあってか、塩は、ブタや貝殻などとの交換に用いられる重要な品となっている。中央高地では、いくつも塩泉が分布しているが、Kumupaという塩泉で作られた塩のみが広く交易に供されているという。そのため、この塩泉から徒歩で5日かかる村においても、頻繁に交易者が通過する様子が、滞在していた調査隊によって観察されている。

ニューギニア東部に居住するエンガ族も、塩泉を利用する同様の方法で塩を作っている。モニ族の場合、塩泉は共同利用であったが、エンガ族の事例では、塩泉を区画し、それぞれが世帯単位で占有されるようである。エンガ族は、社会的階層が発達した社会組織をもっており、塩作りにもそれが反映されていると思われる。

バルヤ族は、これらの部族とはやや異なる製塩法をとる。植物を灰にして、塩分を抽出するという点では共通性があるものの、塩泉も海水も用いないのである。彼らは、塩分を含む植物を栽培し、収穫後、塩作りの専門職人に塩を作ってもらう。専門職人は、窯の上の型に塩水を流し込みながら煮詰め、最終的に長い棒状の塩の塊を作る。バルヤ族の事例は、塩の原料となる植物を栽培し、季節労働ではあるものの、塩作りの専門職人が存在するなど、モニ族・エンガ族よりも複雑な製塩工程となっている。

これら素朴な社会における事例は、塩作りと塩の用途という2点で、日本の縄文時代など、先史時代の製塩の研究に大変参考になる。ニューギニア高地の事例によると、塩は調味料のような日常的用途ではほとんど用いられず、貴重な財として、交易や儀礼に用いられている。ここから、塩は現代社会では安価に利用できるが、素朴な社会では全く異なる社会的・経済的価値をもっていることがわかる。先史時代の社会においても、ニューギニア高地の社会と同様に、塩は貴重な品として扱われていたのではないだろうか。

川島尚宗(島根大学法文学部山陰研究センター客員研究員)

参考文献:「Kumupaの塩-イリアン・ジャヤ中央高原の物質文化(1)-」石毛直道(『国立民族学博物館研究報告』 1巻2号)、『人類学の地平と針路』ゴドリェ・M.(山内 昶訳)、『極限の民族』本多勝一、『生産と饗宴からみた縄文時代の社会的複雑化』川島尚宗

(塩と暮らしを結ぶ運動推進協議会事務局より)本記事中で言及されている「日本の縄文時代の製塩」については、同じく川島氏にご寄稿いただいた「縄文時代の塩づくり(霞ヶ浦周辺と関東平野)」(「くらしお古今東西」の茨城県のページに掲載)をご覧ください(本記事中のリンクから表示できます)。

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