2.フランスにおける塩税の始まりアンジュー伯シャルルのプロヴァンス塩税—

フランス語で塩税を意味するガベルという言葉だが、そもそもの語源を辿ると、アラビア語のガバーラに行き着く。ざっくりと「税」を意味した言葉で、実際フランスでも、葡萄酒のガベル、小麦のガベル、布のガベルといった使い方で、広く間接税を意味した時代があった。それが塩税に限定されていったのは、アラビア語がフランス語に取りこまれる前に、イタリア語のガベッラ、プロヴァンス語のガベラートと経たことに関係する。

ヨーロッパで年貢ならざる税が考え出されるのは12世紀頃からだが、さらに塩税に限定すれば、いち早く取り組んだのはイタリアの諸都市、「コムーネ」と呼ばれるその自治政府だった。ヴェネツィアがキオッジア塩田で、シエナがグロセット塩田で、ローマがオスティア塩田で、製造される塩の売買に税金をかけ始めたのだ。塩税=ガベッラは、13世紀にかけて、コムーネ財政を支える屋台骨にまで成長した。この優れた新税が伝播したのが、イタリアから連続する地中海沿岸の地域であり、フランスでいえば南部、とりわけ東端のプロヴァンスだった。ニース、カンヌ、サン・トロペと並び、「紺碧海岸(コート・ダジュール)」の名でも知られる、あの風光明媚なプロヴァンスのことである。

伯領だったプロヴァンスは、当時まだフランスではなかった。フランスは西フランク王国の後継国家だが、この線引きに則せば東フランク王国、つまりはドイツに含まれたのだ。とはいえ、それが決定的なわけではない。フランスでもドイツでも王権は弱く、諸侯が半独立の体で群雄割拠していたからだ。もっといえばプロヴァンス伯家はスペイン東部、アラゴン王家の分家であり、他の君主の命令など聞かなかった。その13世紀前半の伯がレイモン・ベランジェ四世だが、ここで流れが変わる。娘しかいなかったからだ。上の三人は良縁に恵まれたので、プロヴァンス伯領は末娘のベアトリスに継がせた。1246年、この女相続人と結婚したのが、フランス王家の末の王子、アンジュー伯シャルルだったのだ。

プロヴァンスがフランスに取りこまれる第一歩だが、さておき、このシャルルというのが金が欲しい男だった。ローマ教皇に持ちかけられて、ナポリ・シチリア王にもなろうとしたからだ。が、そのためには戦争をしなければならない。その戦費がまるで足らない。目をつけたのが、プロヴァンス伯領の塩税=ガベラートだった。

それは義父レイモン・ベランジェの代で、相当程度まで整えられていた。所有していたのがカマルグ地方のペッケ塩田だったが、ここに販売所というか税関というか、きちんと建物を建てて、伯が塩の売買を行い、税金を取る仕組みができていたのだ。同様の仕組みは1225年にフレジュス、1229年にニース、1245年にはサント・マリーとアルルにも広げられた。これをアンジュー伯シャルルは受け継ぎ、さらに発展させたのだ。

イエール、トゥーロン、ベッル、イストル、ヴィトロールと、対象の塩田を増やしただけではない。大改革が行われたのがナポリ遠征を控えた1259年夏だったが、その骨子が伯領全土に七つの「塩倉(グルニエ・ア・セル)」を設置するというものだった。マルセイユ近郊のベッル塩田などは買い入れたが、塩田全てが伯の所有というわけではない。ためにシャルルは、プロヴァンス伯領で作られた塩を全て買い取り、それを七つの塩倉に集めさせたのだ。伯家の役人が常駐していたからには、もう「塩税署(グルニエ・ア・セル)」と訳すべきかもしれないが、いずれにせよ他では塩の売買ができなくなり、ここで専売制が成立したといえる。

これが莫大な収入をもたらした。1264年でみると、塩税=ガベラートだけで1万リーヴルの税収があった。プロヴァンス伯家の総収入は2万リーヴルであり、ほぼ半分を稼ぎ出したことになる。これは羨ましい。発音はガベルと訛りながら、フランスでも持ちきりの話題になる。が、その王はといえば、あまり積極的でなかった。民にとっては負担が重く、あまりに不人気だったからだ。塩税など王家の分家が試みた外国の制度——なはずが、後世フランス財政の代名詞になっていく。その契機は14世紀に訪れた。やはり戦争だった。

佐藤賢一(作家)

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第1回 フランス王朝史と塩税

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