4.不公平な税制、大ガベルと小ガベル

フランスの塩税=ガベルは戦争で生まれた。であれば、その後も戦争に左右されて当然か。百年戦争だが、シャルル六世時代にイングランド王との戦いが再燃すると、一時は北フランスの大半と、南フランスも西半分までを占領されてしまう。なんとか保持した地域でも王家の権威は失墜、塩税署も満足に働けなくなった。が、それも次の王シャルル七世の巻き返しにおいて、1435年から徐々に再建されていく。最初は古くからの本拠地であるラングドイル(北フランス)、パリ盆地からディジョネにかけた地域が中心だった。

生産された塩は全て塩税署に収納される。計量後は乾燥のため、最低二年間は倉庫に保管される。出荷時に再び計量、課税のうえで指定の商人に売却される。商人は塩税署に構えた店で販売する。遠隔地の消費のためには、小売商が下請けする。こうした業務が再開されたのみならず、ラングドイルでは「義務塩(セル・ドゥ・ドゥヴォワール)」の制度も導入された。各村長に村の平均必要量を登録させ、それを問答無用に買い取らせる、つまりは塩税を間接税でなく、直接税と同じに徴収する仕組である。当然重税になるが、これが16世紀、17世紀、18世紀と受け継がれ、ゆえに地域は「大ガベル地方」と呼ばれた。18世紀でみると、1ミノ(約39ℓ)の塩が、税込みで54~61リーヴルもの値段になった。ラングドック(南フランス)は事情が異なる。13世紀からの王領だが、15世紀末には新たにプロヴァンス伯領が併合された。そこはプロヴァンス伯がフランス王に先駆けて塩税を導入した土地である。こちらが本筋、伝統は曲げられないということで、ラングドイルのような直接税化は無論のこと、多く課税することもできなかった。やはり18世紀で、1ミノの塩の値段が22~27リーヴルと、「大ガベル地方」の半額ほどだった。ゆえに地域は「小ガベル地方」と呼ばれた。

塩税とは、かくも不公平な税制だった。フランス王の税であり、だから国家の税だといいながら、それゆえに地域とフランス王との関係に大きく左右されたのだ。「解除地方」といわれた南西フランス、古の「アキテーヌ公領」は、元々イングランド王家の領地だった。百年戦争の最終盤、1450年代にフランス王が征服したが、それだけに塩税署の設置がなく、したがって塩税もなかった。再びイングランド王に寝返られても困るので、無理押しはできなかったのだ。ようやく16世紀中葉になって、フランソワ一世が持ちこんだが、1542年に塩税反対の大反乱を起こされてしまう。それを王は鎮圧、さらに塩税を続けたが、1548年にも再び大規模な反乱となった。王位を継いでいたのがアンリ二世で、やはり軍を送って鎮圧したが、このとき地域には塩税買い戻し特権を認めた。これを利用して、地域は一時金とひきかえに塩税署を廃止、そこで「解除地方」になったのである。おかげで18世紀の塩の値段も、1ミノで6~11リーヴルでしかなかった。

同じく1450年代にイングランド王の手から取り戻したのが、北部の低ノルマンディである。この地域では海水の煮沸で塩を製造したが、イングランド王にはその塩の四分の一の量を納める決まりになっていた。その伝統は曲げられないと強弁され、ここも「沸騰製塩四分の一地方」になった。やはり税率は低く、1ミノの塩は13リーヴルほどだった。

全くの「免税地方」もあった。いくつかあるが、大きいのが北西フランスのブルターニュだった。「ブルターニュ公領」は16世紀になって王国に併合されたが、このときの取り決めで、塩税は持ちこまないとされたのだ。ここでは1ミノの塩が、安ければ1リーヴル、高くとも8リーヴルだった。アルザス、フランシュ・コンテ、ロレーヌなど、17世紀の戦争で新たに征服した土地でも、塩税を極端に重くはできなかった。それらは「製塩地方」と呼ばれ、塩が作られる土地だけに塩税署も整備されたが、1ミノの塩が12~36リーヴルと、「小ガベル地方」と比較できるほどでしかなかった。

生活必需品の塩の値段が、同じフランスでこれだけ違う。あまりに違うので、国内で「密輸」が横行し、その摘発が塩税署の主な仕事となったほどだった。「絶対王政」といい、傍からは中央集権の統一国家にみえながら、その実のフランス王国は征服した土地を集めたモザイク国家だったのである。

佐藤賢一(作家)

ホームへ戻る