第4回 大航海時代に登場する塩づくり

レンバタ島の西に位置するソロール島に、大航海時代の記録に残る伝統的な製塩村ムナンガ村がある。ムナンガ村は島の北東海岸に位置し、「タナ・ガラム」(Tanah Garam。ムラユ語で<塩土・塩の土地>の意)とも呼ばれ、この地の塩は内陸部、周辺地域の島々との交易品としても重要な役割を担っていた。

ドミニコ修道会は1556年に「タナ・ガラム」に隣接するロハヨン村に教会を建て、それに伴い、ソロール島とアドナラ島間の水道の拠点として、この地に砦を築いた。ポルトガルの記録によると、1598年、ロハヨン村にあるドミニコ要塞を近隣のイスラム教徒が攻撃する際、「タナ・ガラム」から攻撃をはじめたという。ここが地元民の重要な交易品である塩をつくる場所であったというのがその理由である。

ロハヨン村ドミニコ要塞跡

ロハヨン村はそれから幾度となく、イスラム教とカトリック教との地域紛争、ポルトガルとオランダの勢力闘争に巻き込まれ、砦の略奪戦が行われ、1622年に砦は落城した。製塩村ムナンガの塩も軍事物資としての役割を果たし、その後も内陸部、周辺の島々との交易品として重要な役割を担っていったことが記録に残っている。1870年代に「タナ・ガラム」を訪れたインドネシア国内で著名なオランダの植物学者テイスマン, J. E.は、この地での製塩の様子を詳細に報告しているが、その同じ光景は21世紀初めまで続いている。

東ヌサトゥンガラ州・東ティモール伝統的製塩村

ソロール島が位置する東ヌサトゥンガラ州は熱帯サバンナ気候に属し、年間降水量の少ない乾燥した地域である。明瞭な雨季(12月~4月)と乾季(5月~11月)があり、製塩がおこなわれるのはおもに乾季である。降水日数が少なく低湿度で日照時間が長いこと、そして海水の蒸発量が多く塩分濃度が増すことも製塩の好条件となっている。

ムナンガ村では大きく湾入した入り江の河口左岸から内陸河岸、さらに沿岸部の干潟にかけてマングローブの生育が見られる。ムナンガ村での製塩はマングローブ干潟という自然地形を利用し、乾燥気候の特性を活かした入浜式塩田の原初的段階といえるものである。

19世紀末のテイスマン, J. E.の記録にも描かれているように、マングローブ干潟を開拓して、同一地盤で撒砂-乾燥-集砂-溶出-撒砂を繰り返すことができる「塩浜」に、潮汐によって海水を導入する「浜溝(水路)」や海水の流入を防ぐ「堤」などの塩田と呼べる設備を築き、現在に至るまで製塩村としての歴史を継続している。

塩田は細かく区切られ、それぞれの所有者が決まっており、各自が所有地内で鹹砂(かんしゃ※1)の採取を行う。鹹砂を採る方法には2種類あり、それによってできる塩の質が異なる。ひとつは掘棒で軽く地面を掘りおこす方法で、粗い塩ができる。いまひとつはヤシの核殻を道具にして表土だけを薄く削り取る方法で、細かい塩ができる。採取した鹹砂は籠に集め、採鹹(さいかん※2)装置に直接入れる。

① 区画された塩田
② 石を積み上げ、堤を作る。潮が上がってきた水路
③ 大潮時には海水が水路に入ってくる
④ 塩田遠景

採鹹装置はロンタールヤシの葉で編んだ75cm四方の筵の溶出装置と、それに吊るしてあるロンタールヤシ葉製の六角形の漏斗状の濾過装置からできている。採取された鹹砂は、溶出装置内に均しながら周囲に土手を作り、中央を高く盛り上げて入れられる。バケツに入れた濃度3.5%の海水18ℓを溶出装置に注ぎ、さらに海水36ℓを注ぐ。濾過装置から滴り落ちはじめた鹹水は鹹水容器に溜まる。1時間20分ほどで8ℓの鹹水が採れる。鹹水容器はかつて土器が使用され、今はプラスチック製バケツにとって代わられたが、土器製もわずかに残っている。

ロンタールヤシ製の採鹹装置。鹹水容器に土器が使用されている

① ヤシ殻で鹹砂を削り採る
② 鹹砂を入れ、均しながら周囲に土手を作り、中央を高く盛りあげて山にする
③ バケツ(6ℓ)3杯の海水(濃度3.5%)18ℓを溶出装置に一度に注ぐ
④ 鹹水をバケツに溜める

この鹹水を再度溶出装置に戻して注ぎ、濃度25%の鹹水を採る。この作業を2回おこない、十分な量の鹹水が得られたら、煎熬(せんごう※3)を開始する。塩焚小屋には、ドラム缶の底部を輪切りにした自家製の丸形煎熬釜が置かれている。燃料は薪を使用し、主に後背地で自ら採取する。海岸のマングローブは伐採が禁止されている。3時間焚いて塩が結晶する。約8kgの塩を得、塩取籠(ノメ)に移し入れて苦汁(にがり)を抜く。1軒1日2釜炊いて、塩俵(ソカール)1杯(16kg)の塩をつくる。

① 塩焚小屋の内部。塩取籠(ノメ)に塩を入れ苦汁を抜く
a 塩取籠(ノメ) b 塩塊は牛の飼料として販売される
② 1日2釜で1ソカール(大)約16㎏を生産
c 塩俵(ソカール)

生産された塩は貯蔵しておいて、村の定期市で販売し、トウモロコシ粒2カップに対して塩1カップの割合で物々交換も行う。地域随一の塩の生産地なので、各地から塩を求めて商人が買い付けに来る。買手はムナンガ村の塩を周辺のアドナラ島、レンバタ島、フローレス島などの市場で販売する。塩は必需品であり、物々交換における価値基準を計る商品であるため、ムナンガ村はドミニコ要塞の築かれたロハヨン村と同様に、大航海時代から各地の産物が集結する交易地として栄えた歴史がある。

① フローレス島ララントゥカの公設市場で販売されている塩
② 1ソカール(小)7~8kg:5,000ルピア
1ランタン(プラスチック製容器大)1kg:1,000ルピア

江上幹幸(えがみともこ)(元沖縄国際大学教授)

参考文献:江上幹幸「東部インドネシアの製塩-琉球列島における製塩考察のための民族資料-」東南アジア考古学会『塩の生産と流通-東アジアから南アジアまで-』雄山閣 2011年

注1 鹹砂(かんしゃ):塩分の付着した砂
注2 採鹹(さいかん):鹹水(かんすい(濃い塩水))を採ること
注3 煎熬(せんごう):煮詰めること

これまでの連載はこちら
第1回 ラマレラ村の伝統捕鯨と塩
第2回 海の民と山の民との物々交換
第3回 山の民の塩づくり

続きはこちら
第5回 ティモール島の塩とヤシ糖
最終回 ヤシとマングローブと塩


【塩と暮らしを結ぶ運動推進協議会事務局より】
江上幹幸先生には、「くらしお古今東西」の沖縄県のページにもご寄稿をいただいています。こちらも、ぜひご覧ください。

ホームへ戻る