New 塩をめぐる東方ユーラシア世界史
第4回 契丹・北宋・西夏の共存関係とその背景としての塩事情 2026.1.14更新
第4回 契丹・北宋・西夏の共存関係とその背景としての塩事情
10世紀以降、唐王朝崩壊後の東方ユーラシア世界は、複数の国家が競い合う多極共存の時代に入った。北方の遊牧民を束ねる契丹、南方の農耕世界を治める北宋、そこに北西のシルクロード方面で独立した西夏も加わり、三者は互いに軍事的緊張をはらみつつも、交易などを通じて均衡を保った。本連載の第4回では、これらの複雑な相互関係と、その背後に横たわっていた塩をめぐる諸事情について考える。
契丹の台頭と燕雲十六州の獲得
契丹(きったん、キタイ、916-1125)は、耶律阿保機(やりつあぼき)のもとでモンゴル高原の東南部から勢力を拡大した。その本拠は遊牧草原であったが、中国本土と近かったため、華北北部などから多くの定住農耕民を移住させて耕地や都市の開発を行い、遊牧と農耕の双方に立脚した国家建設を進めた。第二代の耶律堯骨(やりつぎょうこつ)の時には、現在の北京や大同を含む燕雲十六州を獲得した。そして、遊牧民独自の部族制を維持しつつ、農耕民統治のための州県制も併用する二重統治体制を敷いたのである。その過程で契丹は「遼」の国号も用いた。
もともと契丹の領内には内陸の塩湖や塩池が散在しており、塩鉄司という官庁が設置され、塩などの専売収益の管理を行っていた。燕雲十六州に進出して渤海湾沿岸の海塩産地を手に入れると、国内の塩は余剰傾向になったとみられ、馬と並ぶ密貿易品として北宋に持ち込まれた。正規の貿易品にならなかったのは、北宋において塩は専売品であり、禁輸対象だったためである。
北宋の成立と入中法の施行
唐の滅亡後、趙匡胤(ちょうきょういん)が五代十国時代の混乱を収拾して北宋(960–1127)を建てた。彼はもともと五代最後の後周の武将であったが、それまでの武断政治を改め、文治主義を基調とする新たな国家体制を築いた。
北宋の塩政はやや複雑で、政府が直接販売する榷塩法(かくえんほう)と、商人に販売権を委託する通商法とを併用していた。このうち通商法の一形態として、遠隔地の軍需と内地の塩専売を結びつける入中法が実施された点は注目に値する。北宋は、契丹など周辺の諸勢力を牽制するため、国境付近に大規模な駐屯軍を配置していたが、そこに向けての軍糧の納入が課題となっていた。そこで、商人たちに軍糧の輸送を委ね、その見返りとして塩鈔(えんしょう)を発行したのがこの入中法である。塩鈔とは、塩産地で塩と引き換えができる有価証券である。商人はこれによって利潤の高い塩の販売権を得ただけでなく、榷場(かくじょう)と呼ばれる国境付近の貿易場での輸出入に参与する機会を得た。一方、北宋の政府にとっても、国境への物資輸送のコストとリスクを回避しつつ、軍糧を確保することができた。これは本連載の第3回で紹介した唐代の劉晏の塩法の発展形といえる。
澶淵の盟とその意義
契丹と北宋は1004年、澶淵(せんえん)の盟を結んだ。そこでは、北宋が毎年巨額の絹と銀を歳幣(さいへい)として贈ること、両国の官憲や民が規定の国境を遵守することなどが定められた。東方ユーラシアの二大国が、文書を用いて頻繁に実務交渉を行い、国信使と呼ばれる使節団を定期的に派遣しあう時代が到来したのである。
これを北宋の側から見てみよう。当時、北宋は塩専売などから安定的に税収を確保し、江南の開発などを通じてめざましい経済発展を遂げつつあった。とはいえ、傭兵の維持を中心とした軍事費や、歳幣などの外交支出の負担は大きく、長期的にみて国家財政は圧迫された。しかし、契丹との間の長きにわたる対立関係に終止符が打たれ、以後100年以上にわたって平和共存を維持できたことには大きな意味があった。契丹側に支払われた歳幣の一部は、上述の榷場で北宋の商人がもたらした商品の買い付けの支払いに充てられ、北宋側に還流した。つまり、歳幣は両国間の貿易を促進したともいえるのである。
契丹の側にとってもメリットは大きかった。まず、北宋からの歳幣を得て国内経済が潤った。さらにウイグル商人らを介してユーラシア規模の東西交易でも多大な利益をあげた。北宋からの輸入品を、シルクロード(絹の道)やステップロード(草原の道)を通じて中央アジア方面へ転売する流れができたわけである。
また、契丹のなかでは、北宋との密接な交流の中で、北宋との差違を強調する契丹としてのアイデンティティが形成された。これは、建国以来、騎馬軍事力を中核とする遊牧王朝の国制を維持していたゆえである。しかし同時に、北宋に対抗する中華王朝としての意識も立ち現れてきた。つまり、契丹=遼は、遊牧王朝としての威厳を保ちつつ、中華世界を代表する王朝としての自覚を、その王権のなかに矛盾することなく包摂していったのである。実際、契丹は中国を代表する存在として当時の外界から認識された。「中国」を指す呼称として、古代の秦王朝に由来する“チャイナChina”とは別に、契丹(キタイ)に由来する英語の“キャセイCathay”やロシア語の“キタイKitaj”などがある。契丹の名はユーラシア世界に広がっていったのである。
西夏の独立と「青白塩」をめぐる経済戦
契丹と北宋が澶淵の盟を結ぶ少し前、中国の西北部、オルドス南部・陝西北部の一帯でタングトと呼ばれる勢力が台頭し、シルクロード交易の要衝にあたる河西回廊まで領域を拡大した。そして1038年、首領の李元昊(りげんこう)が北宋の影響下から離れ、興慶府を中心に西夏(1038–1227、自称は大夏。西夏は北宋からの他称)を建てた。これにより、東方ユーラシアの情勢は複雑化した。
西夏は、チベット・ウイグル・漢族など多種族からなる国家を形成し、その地政学的優位を最大限に活かした。その一例として「青白塩」をめぐる北宋とのやりとりを挙げることができる。青白塩とはオルドスの塩州・烏池・白池などの塩湖で産出される塩であり、北宋の解池などの粒状の顆塩に比べ良質で、価格も安く、陝西一帯の民衆に好まれた。西夏はこの青白塩を穀物との取引に用いただけでなく、北宋に対する外交・軍事戦略のカードとしても活用した。
北宋は領内の専売収益を守るため、西夏からの青白塩の輸入を禁止したが、民衆や軍兵は安価で良質な青白塩を求めたため、半ば公然と取引された。これを理由に北宋が西夏に対して経済制裁を加えると、西夏は青白塩の供給を停止することで北宋側に圧力をかけた。そして1044年、西夏と北宋の間に慶暦の和約が結ばれた。そこでは北宋を君、西夏を臣とすることが形式的に定められたが、実質的に北宋は絹・銀・茶などを提供することにより、西夏の侵入を免れるというものであった。ただ、北宋はこの和約においても青白塩の正規輸入を頑なに拒んだ。とはいえ、これ以後、国境地帯における交易は復活し、先述の契丹と北宋の関係と同様に、緊張をはらみつつも外交を通して両者は繋がりを維持した。総じていえば、互いの需要を満たすような方向へ展開したといえる。
以上のように、唐崩壊後の東方ユーラシアでは、契丹・北宋・西夏の三勢力が競合・共存する多極的な国際秩序が築かれた。各勢力は軍事的緊張をかかえながらも、盟約の結果としての歳幣や、密貿易を含めた交易を通じて互いに結びついていた。その歴史的展開の背景にはつねに塩の存在が見え隠れするのである。
矢澤知行(近畿大学国際学部教授)
主要参考文献
田村實造『中国征服王朝の研究』上、東洋史研究会、1964年.
佐伯富『中国塩政史の研究』法律文化社、1987年.
伊原弘・梅村坦『宋と中央ユーラシア』〈世界の歴史7〉中央公論社、1997年.
杉山正明『遊牧民から見た世界史』日本経済新聞出版社、1997年.
古松崇志『草原の制覇:大モンゴルまで』〈シリーズ中国の歴史3〉岩波新書、2020年.
古松崇志『ユーラシア東方の多極共存時代―大モンゴル以前―』名古屋大学出版会、2024年.

