塩が足りないと? 第3回 無人島生活と塩

1898(明治31)年末、16人の海の男たちを乗せた帆船・龍睡丸は漁業資源開拓のために太平洋へ航海に出た。が、翌年5月20日、絶海の孤島ミッドウェイ島に近いパール・エンド・ハーミズ礁で座礁して大破する。当時、無線電信は未だ実用化されていない。

が、船から約100m、大きく平らな岩が水上に見えた。で、帆船に積んであった伝馬船に運転士と水夫長を乗せて海に下ろす。その瞬間、山のような波に襲われて人も船も見えなくなった。と、数秒後、伝馬船と2つの黒い頭が白い波のなかに浮き出す。

助かった。良かった。全員、無事にその岩に移り、龍睡丸から大切な生活物資を運ぶ。で、改めて伝馬船で住めそうな島を見つけに行く。

昼過ぎ、島らしきものが見えた。空腹と喉の渇きは限界に達している。そんな状態で上陸した。と、木は皆無だが、一面に緑の草が繁っている。広さは4,000坪程度だった。

そこに、岩に残してきた荷物を運ぶ。島で役立つものを探し、井戸を掘る。が、出てきた水は白濁して飲めなかった。

夜までに木材を柱にし、帆を屋根に張ったテントができた。全員そこに集まり、正覚坊(アオウミガメ)の潮煮と焼肉を食べる。水がないので米は炊けない。

翌日、底に穴を開けた石油缶を地中に埋める。と、少し塩辛いが、とりあえず飲める水が確保できた。ただ、龍睡丸から運べた米は、わずか2俵――お椀に2杯の米を16人で食べることにする。

あとの食物は手作りの、しかし立派な網で獲る各種の魚と産卵にやってくる正覚坊だ。冬の食糧難に備えて30頭余の正覚坊の牧場も作る。魚とウミガメで食物は確保できた。

ただ、木材がない。で、伝馬船で新しい島の探検に出かけ、「本部島」と名付けた拠点の島の2倍程度の広さの島を見つける。そこで大量の流木を手に入れる。名は「宝島」とした。

手に入れた流木で、本部島の嵩上げした土地に櫓を組み、四方の海を見張って船の発見に備える。同時に宝島で拾得した銅板に鉄釘で、

「パール・エンド・ハーミズ礁、龍睡丸難破、全員16名生存。救助を乞う。明治32年6月21日」

と書き、6枚の木の板に打ち付けて海に流す。こうして無人島での生活が本格化した。

と、塩が欲しくなる。島のまわりは「塩水」に囲まれている。が、そのままでは「食物に味をつけたり、魚をたくわえたりする」ことはできない。

やがて海綿を集めて海水をかけ、天日での乾燥を繰り返して濃縮し、絞り汁を石油缶に入れ、宝島で入手した流木を燃やして煮詰めると固形の塩ができた。塩焼きの魚は美味になり、魚の塩漬けもできるようになった。

それから3か月近くが経った9月1日、見張り台で男が大声で叫び出した。沖に目を移すと水平線の彼方に帆船の小さな影が見える。すぐに火を焚き黒煙を吹き上げ、正午ごろ、伝馬船で帆船をめざす。午後4時ごろ、帆船に到着。縄梯子を伝って帆船の甲板に躍り込むことができた。

日本を出て1年、無人島に上陸してから7か月、「無人島に生きた16人」は1899(明治32)年12月23日、冠雪の霊峰富士を仰ぎつつ無事、駿河湾に帰還することができた。

高田公理(武庫川女子大学名誉教授)

参考文献:須川邦彦、1952『無人島に生きる十六人』講談社

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