第5回 陸の孤島で命を繋ぐ赤い塩の池(ニジェール共和国)

塩をたっぷり含んだ日干しレンガの家並みは、打ち捨てられた廃墟のように見える。ここはサハラ砂漠の真っただ中にあるビルマ村。一番近い町からでも700km以上離れた陸の孤島だ。村の土地は塩害で作物ができないかわりに、塩分の多い土地に池を掘り、ひたすら塩を作って町から物資を運んでくるキャラバンに売り渡すという生活を500年も続けている。

生活物資が豊かな日本にいると、塩が毎日の暮らしや健康に欠かせない大切な物質だということを忘れてしまう。逆に塩の摂り過ぎで健康を害すると悪者扱いされるほどだ。しかし海から遠く離れたアフリカ内陸部では、この貴重な塩を大変な労力をかけて砂漠から手に入れてきた。

塩を含んだ日干しレンガの家並みが廃墟のように密集する景観は、塩で生計を立てるビルマ村。ここはキャラバンにとって交易の時代からつづく交通の要衝で欠かせない宿駅でもある。

 

村の西3kmのところに塩の採取場がある。代々引き継がれた池に水を引き込んで塩水を作り結晶させる場所だ。池から取り出した塩は、ヤシの幹で作った型で型抜きして塩の柱にする。これは秤を持たない村人の知恵で、塩を運ぶキャラバンにとっても道中荷こぼれの心配がない。

塩の採取場。土に塩分が含まれているので水を入れて塩水を作り、塩を結晶させる。血のように赤い水は鉄分と塩水に発生する藻。高台には池から採り出した塩とその塩を型抜きした塩の柱が見える。池の底をさらった土石が採掘場を囲んでいる。

塩の採取場に囲まれた広場は塩の積み出しをする砂漠の港だ。採取場には出荷を待つ塩の柱が見える。広場にはラクダの餌とキャラバンが運んできた日用雑貨や食料品の市がたつ。出発の準備が整ったラクダの列も見える。その向こうに山脈のように立ちはだかる砂丘がキャラバンルートのテネレ砂漠。

 

出発の朝が来た。西の町アガデスまで750km。塩を運ぶのは商才にたけた西アフリカの民族集団ハウサ族。キャラバンの親方を説得して同行したものの、毎日の移動は想像を絶した。朝8時に出発すると深夜の12時過ぎまで決して止まらない。隊員が熱中症でラクダから落ちても移動はつづいた。

11時と15時、荒くつぶした粟に水をかけただけの食事を歩きながら食べた。4日分の水しか持たないキャラバンは、何が何でも4日以内に水場にたどり着かなければならず、毎日60km以上の行軍がつづいた。

月のない夜は漆黒の闇。ラクダの上で睡魔と闘うのは拷問に等しく、眠ればラクダから落ちて命の危険に晒される。

移動中1日2回の食事を歩きながら食べた。給仕役の若者が親方たちに水にふやかした粟汁をついで回る。旅には7・8歳の子供も参加させてキャラバンの知識を身につけていく。

 

日を追うごとにラクダが転倒した。塩の重みで背中に穴が開き、内股がこすれ大腿骨が露出した。ラクダの悲鳴が静寂の砂漠に響く。負傷して衰弱したラクダは死ぬほかない。1km進む間に4、5頭のラクダの野晒が道標となって転がっている。数百年にわたり塩のキャラバンの歴史が営々と積み重ねられた塩の道は、人とラクダの屍を敷き詰めた死の道でもあった。

19日目、ビルマ村の塩はキャラバンの血と汗で、ついに砂漠を越えた。地球上には、いまだ生きるために塩を作り、その塩を命がけで運ぶ人たちがいたことに、驚きと共に深い感動をおぼえた。

砂丘を越えていくキャラバン。かつて網の目のように張り巡らされていた隊商路は、現在2本しか残っていない。一つはこのビルマ・アガデス間の東西ルートで、砂漠を越えてメッカまでつながる巡礼の道でもある。もう一つはマリのトンブクトゥとタウデニを結び地中海まで伸びる南北ルート。どちらも生活に欠かせない塩の道として最後まで残った。

片平 孝(写真家)

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