第6回 塩の旅の原点・タウデニ塩床(マリ共和国)

1970年1月、砂の海と悪戦苦闘を続けながら2週間以上サハラ砂漠を南下していた。このまま永久に砂の世界から脱出できないのではと思いかけてきたある日、突然アフリカ第3の大河ニジェール川に出た。目に飛び込んできたのは川岸に着いたばかりのキャラバン。30頭近いラクダの背中に岩塩が積まれていた。この岩塩こそ、かつて金と同じ重さで取引されたバーと呼ばれる板状の塩である。初めて見るサハラの岩塩にすごく興味を持った。砂漠に眠る岩塩。削られて板状にされているが鋸で引くのか? その場所は地下なのか地上なのか?

 

1970年、旧西ドイツで購入した1,000ドルのポンコツワーゲンで、地中海岸のアルジェから砂漠を3,000km南下。ニジェールを経由してマリに入った。車は毎日故障した。屋根に積んでいるのはガソリン。これも命の危険と隣り合わせだった。

 

赤く退色した写真は、1970年1月、大河ニジェール川の岸辺に降ろされたタウデニの岩塩。初めて見るサハラの岩塩に大変興味を持った。鉱山はどんな場所なのか? 板状に削られた岩塩はどのようにして切り出すのか? 道中どんな旅をするのか?等々尽きぬ好奇心が深く心に焼き付き、塩の旅の原点になった。しかし現地を訪ねるまでには、世界各地の塩の旅を続けながら33年も時間がかかってしまった。

 

岩塩鉱山タウデニは古都トンブクトゥの北750kmの流砂の彼方にある。いつか彼らと一緒に訪ねてみたいと思っていたが、軍事政権下の流刑地で、外国人の立ち入りはできなかった。

1990年代に入って、囚人が強制労働で掘っていた塩は、一獲千金を夢見るマリの人々に解放されたが、原住民トゥアレグ族の反乱で外国人は、まだ近づくことができなかった。

2002年、28年ぶりに訪れたトンブクトゥでタウデニに行けることを知り、翌年12月ラクダで出発。初めて岩塩を見てから、すでに33年が過ぎていた。

北に向かう砂漠の道は地中海へとつながるかつての交易路で、今も塩の道として役目を果たしている。

19日目の夕方、深い流砂を下っていくと、タウデニの巨大な盆地が現れた。凸凹に波打つ褐色の大地が眼下に広がる景観は地の果てそのもの。干上がった太古の湖が夢にまで見たタウデ二だった。

タウデ二塩床の景観。ぼた山の数だけ縦穴がある。昔の文献には穴の深さが5mあったと書かれているが今は3m。鉱区が湖底の中心から岸の方に移動している。これより下は、地下水が湧き出してくるので掘れない。積み上げた石は不純物が多い岩塩で塩の板にできず捨ててある。

 

「やっと来たぞ!タウデニ!」33年間のほとばしる思いが絶叫となって飛び出した。

中央部に孤立した岩山がある。鉱山だろうと近づくと、モグラのように地面を掘る男たちがいた。ここが塩の採掘場で、土石を積み上げたその下に縦穴がある。ツルハシを振り下ろし、4、5人で1ヶ月かけて掘り下げた深さ3mの手掘りの穴は、20坪ほどの広さで、水平に堆積した厚さ20cm前後の塩の地層が見えた。初めてタウデニの岩塩を見たときから、どうしたら板状の岩塩ができるのか、ずっと不思議に思っていた。この思いが塩の旅を始めるきっかけになった。

3層目の岩塩層からはがした厚さ20cmの原石を運ぶ(左)。右側では両面の不純物を手斧で削り落として、120cm×40cmの板にする。壁の白い筋は塩水の中で最初に結晶する石膏。その下に20cm以上の岩塩層が見える。

 

タウデニの井戸は海水と同じくらい塩っ辛い。キャラバンは塩を手に入れると、別れの挨拶も言わず逃げるように出発した。

1頭のラクダに4枚の塩が積んである。そのうち3枚がキャラバンの報酬。この驚くべき比率は、塩の運搬が常に死と隣り合わせの過酷なもので、盗賊など道中の危険が大きいからだ。灼熱の大地で塩を掘り出す大変さよりも、いかにして砂漠を越えて町に塩を運ぶか、今も昔もそれが最大の課題である。

 

南に向かう塩の道は、昼を過ぎると正面から灼熱の太陽が照り付けて、すべてを焼き焦がしていく。日差しをさえぎる一片の雲もなく、頭に巻いたターバンを目線ギリギリにずり下げて影をつくり、日が西に傾くのをじっと待ちながらラクダの上で耐えるだけ。サハラの塩は、塩を掘り出すことの大変さよりも、いかにして町まで塩を運ぶかが最大の課題であった。そして西アフリカ内陸部の金を多く産出する地方では、生活に欠かせない塩を同じ重さの金と交換していたのである。

 

現在、タウデニの塩の道は、政情不安で、再び外国人に閉ざれてしまった。命を賭して塩を運ぶキャラバンは当分見ることができないのが残念である。

片平 孝(写真家)

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