くらしお古今東西

長崎県と塩

長崎県の五島では、中世から近世にかけて、海水を直接煮つめる方法で塩をつくり、島内の需要を満たすほか上方や江戸向けの魚介の加工用にも充てていたようです。一方、九州本土側では、西彼杵郡や東彼杵郡などで、江戸時代から明治期まで小規模な入浜式による塩づくりが行われていました。

また戦時中から昭和30年代ごろにかけては、温泉熱を利用した塩づくりや、石炭を燃料に海水を直接煮つめる方法による塩づくりなども行われました。

塩についての記録

フロイス『日本史』

中世末に日本を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの著した『日本史』には、五島は食料には乏しいが魚と塩だけは豊富であること、塩づくりは釜で海水を直接煮つめる方法によっていたことなどが記録されています。

参考文献:『塩の日本史』廣山尭道

塩づくりの歴史

武士の残党による塩づくり

五島では古くから漁業が盛んですが、中世から近世にかけては、武士の残党や、瀬戸内などの漁民が盛んに移住してきました。

慶長18(1613)年には、約30年前の天正11(1583)年、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、越前(現福井県)北ノ庄城で自刃した柴田勝家の孫2人が、従者8人を従えて五島の立串郷(現南松浦郡)に上陸し、主従共に漁業のかたわらで塩づくりを行ったと伝わっています。

塩づくりは海水を直接釜で煮つめる方法によったものと思われ、燃料(薪になる木)の関係から、3年ごとに住まいを移し、約10年で再びもとの海岸にもどってきたそうです。

本当に柴田勝家の子孫がやってきたのかは分かりませんが、同じように五島にたどり着き、漁業や塩づくりを行うようになった武士の残党たちがいたのだろうと考えられています。

参考文献:『漂海民』羽原又吉

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一般社団法人日本塩工業会会員

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