くらしお古今東西

兵庫県と塩

江戸時代には赤穂、大塩(現姫路市)などに大規模な入浜式塩田がつくられ、盛んに塩づくりが行われました。兵庫県は、昭和40年代まで、塩田による塩づくりの中心地の一つでした。

塩にまつわる名産品

赤穂緞通と塩作り

2019年5月、兵庫県赤穂市は「『日本第一』の塩を産したまち播州赤穂」として日本遺産に認定された。「日本第一」の定義は微妙だが、赤穂の塩は近世初期から入浜塩田が築造され、江戸・大坂を始めとして全国に流通されていた。しかも、赤穂産の塩のことを「塩」ではなく「赤穂(あこう)」というように、産地の銘柄が塩の代名詞として使われていた。赤穂流の製塩法は、竹原塩田(広島県)を始めとして瀬戸内各地に広がることになる。また、三河国吉良でも製塩業が盛んであり饗庭塩として知られていた。江戸時代、吉良の領主である吉良上野介が、赤穂藩主浅野内匠頭に赤穂流製塩法を問うたところ、教えてもらえないことが遺恨となり、その後の対立へとつながったという説もある。

(塩と暮らしを結ぶ運動推進協議会事務局より)「くらしお古今東西」の愛知県のページには、製塩と忠臣蔵とは関係がないという立場からの「『忠臣蔵』松の廊下刃傷事件 塩田説について」という記事も掲載されています。あわせてご覧ください。

実は、近代の赤穂は緞通(だんつう)生産が盛んで(緞通とは木綿織の絨毯)、赤穂緞通は佐賀の鍋島緞通、大阪の堺緞通とともに日本三緞通の一つとして数えられるほどであった。

この赤穂緞通は文政6年(1823)中村(現赤穂市中広)で生まれた児嶋なかによって考案されたといわれる。夫の三郎兵衛と共に高松(現香川県)に行った際、たまたま中国製の緞通、万暦氈(ばんれきせん)に感動し、木綿で織って緞通を製作することを思い立った。明治3年(1870)に高機により座布団程度の大きさの緞通が可能となり、さらに明治7年(1874)には1畳機が製造できたといわれる。その後、新浜村の早川宗助に赤穂緞通の技法を伝えたことで、早川は明治20年(1887)に新浜村川口に早川緞通工場を創業し、その後、新浜村には山中緞通、高野緞通、末政緞通など続々と工場(緞通工場のことを緞通場と呼んだ)を設立したのである。

こうした工場で働く織子は、小学校の卒業後から学ぶのでは習熟が遅れるという理由で10歳ごろから母親や姉から教わったという。今とは違い、とても厳しく、手を叩かれて叱られたという。また学校が終わると緞通場に行き、そこで熟練の織子さんと並んで座り学んだともいう。緞通生産は6畳にも及ぶ大きな物が注文されることがあった。こういう時には幅1間半(約2.7メートル)の大機に4・5人が座椅子に並んで織作業を行ったという。

こうした織子たちは塩田で日中、寄子として3時間程度働き、それ以外の午前と午後4時以降は織子として働いた。織物作業は、集中して作業するのが一般的な印象なので、寄子(浜子作業)をしながら織子をしていたというのは驚きだ。また、雨天で塩田が休業になると、大勢の浜男たちが緞通場に遊びに来ることも多くあり、織子と浜男の間で仲良しになることも多かったという。

落合 功(青山学院大学経済学部教授)

参考文献:「赤穂緞通の技法」廣山堯道(『企画展図録 赤穂緞通』赤穂市立美術工芸館田淵記念館)、『企画展図録 赤穂緞通』赤穂市立美術工芸館田淵記念館

塩についての記録

兵庫北関入船納帳

『兵庫北関入船納帳』という古文書には、文安2(1445)年の正月、2月中の約12日間に摂津兵庫北関を通過した商船の数や積載商品が記録されています。この期間に通過した全61隻のうち約半数が塩を運んだ船であり、当時から、瀬戸内海沿岸各地でつくられた塩が大量に京都方面に運送されていたことが分かります。

参考文献:『日本塩業大系 原始・古代・中世(稿)』

塩と暮らしを結ぶ運動推進協議会会員

日本特殊製法塩協会会員

  • 赤穂あらなみ塩株式会社
  • 山陽塩業株式会社
  • 株式会社多田フィロソフィ
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