くらしお古今東西

愛媛県と塩

中世には、弓削島(現新居浜市)や岩城島(現越智郡上島町)に「塩浜」があったという記録があります。

江戸時代には、多喜浜(現新居浜市)、波止浜(現今治市)、伯方島(同)などに入浜式塩田が築かれ、盛んに塩づくりが行われました。その後も愛媛県は、昭和30年代まで、塩田による塩づくりの中心の一つでした。

塩づくりの歴史

カシキの塩田生活

塩田で働く労働者のことを浜子と呼ぶ。塩作りは棟梁を筆頭に6~7名程度の浜子の共同作業によって行なわれた。浜子は年齢や経験により序列があった。塩田によって名称は異なるが、大工(棟梁)の下にジョウバンコ、ハナエ、カシキなどがあった。一番最初に浜子になると見習いとしてカシキとなった。年齢でいえば15歳程度のときである。カシキは「炊」と書き、主な仕事は食事の用意をすることだった。戦前のころのカシキの様子について、生名島(越智郡上島町)の塩田を例に紹介しよう。

浜子は浜子小屋で寝泊まりをする。朝起きるのは4時である。カシキは大工を始めとした他の浜子と共に、まず塩田に出る。浜子たちは全員で地場に撒かれてある砂をマンガを利用して掻く。これを手びきと呼ぶ。これにより砂を均一化し、濃い塩水(鹹水)を効率よく吸水させる。よって、塩田での作業は引く方法が決められていた。この手びきが40分程度で一段落すると、浜子全員20分ほど休憩する。その後、5時頃から6時20分にかけて沼井堀などの作業が行なわれる。この作業が終わると、浜子たちは自由時間となり休憩する。しかしカシキは、休むことなくすぐに水汲みをし、朝食の準備に取り掛かる。水汲みは、1斗5升のハナエタゴを使い、風呂のために2荷、使い水として親方(大工)の家に1荷、浜子小屋に1荷を運ぶ。井戸は家の近くにあるとは限らず、80mも離れていることもあった。この水汲みは見習いカシキ、カシキ、ハナエが分担して運ぶが、見習いカシキやハナエが不在の場合、カシキ1人でやらなければならなかった。

朝食が終わるのは7時30分ごろで、そのあと12時まで休憩である。しかし、カシキは11時頃から昼食の準備を始める。昼食がすむとしばらく休憩し、13時30分ごろから他の浜子たちと塩田での作業を行なう。まずは、ヘリイレ(塩田の周囲の溝や沼井のヘリにたまった砂を塩田の地場に戻す作業)、そして、早朝に行なわれるのと同様な手びきである。その後、少し休憩して、土振り(沼井の周囲に盛られた土を塩田に振り撒いて戻す)、潮汲み(濃い塩水(鹹水)をとるために沼井に敷き詰めた砂に潮水をかける作業)が行なわれた。こうして塩田の一日の作業は終わる。カシキはただちに夕食の準備に取り掛かり、夜8時30分ごろには食事ができるようにした。浜子は、作業が重労働であり、一升食べると言われた。それだけの量を用意するのがカシキであった。食事がすむと、カシキの一日は終わりである。

落合 功(青山学院大学経済学部教授)

参考文献:「西瀬戸島嶼巡航記」野本寛一(『民俗文化 第10号』近畿大学民俗学研究所)

塩にまつわる人物

長谷部九兵衛

松山藩内に塩田をつくろうと、安芸(広島県)に渡り竹原塩田で働いて塩づくりを学びました。その後松山藩に戻り、天和3(1683)年に波止浜湾に塩田を築きました。これが波止浜塩田のはじまりです。

参考文献:『大日本塩業全書 第三編』、『塩と碑文』水上 清

会員からの寄稿

地場産業のとしての塩の歴史、取り組み

※ NPO法人弓削の荘 理事長・村上知貴氏からの、愛媛県越智郡上島町弓削島における塩づくりの歴史や現在の取り組みについての寄稿です。

塩と暮らしを結ぶ運動推進協議会会員

日本特殊製法塩協会会員

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