くらしお古今東西

香川県と塩

江戸時代の後半には、坂出に大規模な入浜式塩田が築造され、坂出のほか詫間、宇多津等において、さかんに塩づくりが行われました。また小豆島でも、15、16世紀ごろからかなりの製塩が行われており、小豆島の塩は「島塩」と呼ばれていました。その後も、香川県は、昭和40年代まで、塩田による塩づくりの中心の一つでした。

参考文献:『香川の塩業のあゆみ』日本たばこ産業株式会社高松塩業センター

New 瀬戸内塩業人物伝

第2回 久米栄左衛門(くめ えいざえもん)1

久米栄左衛門は安永9(1780)年、大内(おおち)郡馬宿村(現東かがわ市馬宿)で誕生しました。この馬宿は阿波国(現徳島県)との国境に位置し、上方との交流が盛んでした。生家は10石の農地をもつ農家であり、一方で90石積の船を所有する船頭でもあったようです。寛政10(1798)年に大坂の天文学者だった間重富(はざましげとみ)2の門に入りました。重富のもとで暦学、測量の技術を学び、享和2(1802)年に帰郷し、病没した父喜兵衛のあとを継ぎました。

文化3(1806)年には高松藩の御内御用測量を命ぜられ、同年11月16日より測量を開始、文化5(1808)年からは伊能忠敬が四国地方の測量を行いましたが、栄左衛門はその案内役をつとめています。同6(1809)年には天文測量方となり二人扶持を給せられ、次いで同8(1811)年には久米と苗字を名乗ったようです。

文化9(1812)には栄左衛門は三挺の弩を製作し、弩(ど。弓と小銃を組み合わせたもの)の製作と前後して、大筒の製作にも従事し、文化11から12(1814~15)年にかけては「腰指銃」「無敵鎗間銃」と呼ばれる銃身20cm余りの短銃を製作し、天保10(1839)年前後には、雷管式銃を製作しており、以後これら銃の製造をはじめとして、天保12(1841)年に没するまで兵器の製造にも携わることになりました。

 

坂出塩田の開発

『香川県史4 通史編 近世Ⅱ』には「讃岐三白として米・塩・砂糖をあげる場合もあるが、米が普通農作物なので米に代えて綿を三白に含めるのが一般的である」と記載があります。讃岐はいわゆる瀬戸内式気候で、降雨量がきわめて少なく、これが逆に綿・塩・砂糖の生産に幸いしたようです。三白と言うとはいえ、塩は砂糖に次ぐ生産量で、江戸幕府8代将軍の徳川吉宗の奨励による砂糖生産の成功がデータとなって現れていると言えるでしょう。さて、ここで塩についてみていきたいと思います。塩は古来、讃岐の特産品ではあり、坂出においても近世以前から製塩が行われていたことは推測できます。特に、播州赤穂(現兵庫県赤穂市)からの技術者の移住を機に塩業が盛んになったようです。

文政7(1824)年10月13日、栄左衛門は藩財政の再建を願い、製糖業の保護と坂出塩田の開墾を建議しました。当時の高松藩の財政は最悪の状態で、正貨保有高は減少、藩札の通用価値もどんどんと下落していた状況でした。製糖業については、当時讃岐の特産品として全国で取引されていた砂糖について、その流通をうまく統制することで、藩の増収を見込めるとのことでした。また、坂出塩田の開発については、実際の施設設計・収支の算出まで行っていたようです。

高松松平家9代松平頼恕(よりひろ)により採用された坂出塩田開発ですが、文政9(1826)年から栄左衛門を普請奉行として始まることになりました。

その後、文政12(1829)年には干拓のための堤普請が完了し、天保3(1832)年には西新開・東新開・江尻新開が完成します。この坂出塩田は、藩の財政再建に大きく寄与したようです。

土木工事にも力を発揮した栄左衛門のもとには、その後高松藩外においても「別子立川銅山(現愛媛県新居浜市)の水抜き」「遠江(現静岡県)新居今切湊(あらいいまぎれみなと)の改修」など、仕事が次々と舞い込んできたようです。

 

宇多津塩田築造計画と病没

坂出塩田の開発を終えた栄左衛門は、引き続いて宇多津塩田(現香川県宇多津町)の築造を計画し、天保10年「宇多津産砂新開内積帳」およびその設計図を完成させましたが、着工には至らず、天保12年8月、栄左衛門はふるさと馬宿で病没しました。宇多津塩田の築造が叶うのは明治に入ってからでした。栄左衛門は塩田築造のみならず、様々な分野で才覚を発揮したことがわかります。現在では久米栄左衛門に関する資料は香川県坂出市にある鎌田共済会郷土博物館に収められており、『香川県史』『日本塩業大系』『坂出市史 資料』などで一部翻刻掲載されています。また研究についても「久米通賢研究会」で活発に議論が行われています。

小柳智裕(就実大学経営学部准教授)


  1. 久米栄左衛門は実名を通賢(みちかた)といい、後年になって「つうけん」と呼ぶことが一般化したようです。
  2. 麻田剛立(あさだごうりゅう)の弟子で、数理天文に通じ、測量機械の改良にも熱心でした。寛政7(1795)年には剛立に推挙されて同門の高橋至時(たかはしよしとき)と共に幕府の改暦御用を命じられ、同9(1797)年まで改暦作業に従事しています。

参考文献
香川県編『香川県史4 通史編 近世Ⅱ』四国新聞社、1989年
久米通賢研究会編『もっと知りたい!久米通賢』財団法人鎌田共済会、2010年


これまでの連載はこちら
第1回 野﨑武左衛門(のざき ぶざえもん)(岡山県のページ)

塩づくりの工夫

風を読む

今でこそ、塩作りは天候に左右されないが、入浜塩田の時は天候に左右された。雨天の時は鍬や桶などの手入れを行った。こういったことで、気象予想は重要であった。詫間町では、ヤマジカゼ(南風)が吹くと塩田上にあるキラレ(撒砂)上に塩が紫色に浮き上がったという。これを「シオノハナ」とか「カスノハナ」などと呼んだ。こうした、「シオノハナ」が浮かび上がると、雨が降りやすいという。また、この「シオノハナ」は春先に多く出るといわれる。

夏風のことは朝コチタマジと呼んだ。朝九時ごろにコチ(東風)が吹き、夕方に南西の風に変わると天気が安定するといわれ、コチ(東風)からキタゴチ(北東の風)やキタゴチからコチに変わると雨が降るといわれた。

落合 功(青山学院大学経済学部教授)

参考文献:「瀬戸内塩業生活誌」小池和貴(『民俗文化 第10号』近畿大学民俗学研究所)

塩と暮らしを結ぶ運動推進協議会会員

全国塩元売協会会員

一般社団法人日本塩協会会員

ホームへ戻る