くらしお古今東西

徳島県と塩

戦国時代末に、撫養(現鳴門市)に入浜式塩田がつくられました(斉田塩)。続いて江戸時代に現在の徳島市域の徳斉浜(徳斉塩)、阿南市域の答島(こだじま)浜(南斉塩)にも塩田がつくられ、さかんに塩づくりが行われました。中でも撫養の「斉田塩」が江戸などでは有名でした。その後も徳島県は、昭和40年代まで、塩田による塩づくりの中心地の一つでした。

参考文献:『徳島県塩業写真資料集』小橋 靖

塩の道

塩田の上荷船

江戸時代後期、瀬戸内の塩田で作られた塩は、全国各地に運ばれた。塩田のそばには湊町があり、北前船や塩廻船が寄航し賑わっていた。それでは塩田から湊町まではどのようにして運んだのだろうか。これは、上荷船という小さな船に載せて湊町まで運ばれた。北前船や塩廻船も巨大で湊に横付けできない場合、荷物は艀や上荷船などで運んだ。そう考えると、塩田において上荷船は不可欠な存在であった。

鳴門市域でも、塩俵や石炭を運ぶために上荷船を使っていた。塩田の横にある水尾川に上荷船を横付けし塩俵や石炭を運んだ。塩田上に敷くネバ(粘土が混ざった砂)も運んだ。鳴門では上荷船のことをウワニブネではなくワネブネとよび、船持ちのことをセンダハンと呼んだ。

鳴門市域では、塩田整理などが行なわれるようになると、何度となく浜主と浜子との間で労働争議が行なわれるようになる。昭和2年の塩田労働争議では、高島の塩田労働者が105日間も罷業する事態になっている。こうなると、困るのは浜主や浜子だけではない。上荷船で生計を成り立たせている人々も、仕事が無くなり困ってしまったのである。そんなおり、東京に鳴門市鳴門町や撫養町の人がいた。

実は隅田川(荒川)の上流では砂が多く採れていた。砂は近代化に必須の物資であった。明治時代ではレンガを作るために必要だったし、関東大震災後になると、セメントやコンクリートを作る原料として必要だった。ちょうど塩田が休業などで上荷船の仕事が無く困っていた時だったので、上荷船の人たちは、東京や大阪への移住を決めたのである。この時の様子は関東大震災後に「船に船を積んで」東京にきたというふうに言われている。なお、こうした上荷船の人々は砂船を使って砂を運ぶだけでなく、夫婦で船を操り水上で生活をしていた。船所帯といわれ、船の後ろは中二階となっており、畳二畳ぐらいのところで生活していた。これらの船は隅田川の豊島河岸(東京都北区)に多く集まっていたとされ、川幅の半分が船で埋まる程度だったと言われている。そして物売りの船も往来しており賑やかだった。

砂の需要もなくなると、鳴門市域に帰って塩田作業の手伝いをしたり、そのまま残って砂問屋や建材屋など商売をするものも多かったという。

落合 功(青山学院大学経済学部教授)

参考文献:『北区史・民俗編3』北区史編纂調査会編、『鳴門路 第5号』鳴門郷土史研究会編

塩にまつわる人物

馬居七郎兵衛・大谷五郎右衛門

播州荒井村(現兵庫県高砂市)の塩業者。阿波蜂須賀家に招かれ、慶長4(1599)年、撫養に塩浜を拓いたのが徳島県の塩田のはじまりです。その後も塩田を開発し、また田畠の開発にも功績がありました。

参考文献:『徳島県塩業写真資料集』

塩と暮らしを結ぶ運動推進協議会会員

全国塩元売協会会員

  • 徳島塩元売株式会社

一般社団法人日本塩工業会会員

 

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