くらしお古今東西

広島県と塩

中世には因島や向島などで塩づくりが行われていたことが記録されています。

江戸時代には、各地で入浜式塩田がつくられ、盛んに塩づくりが行われました。竹原、松永、瀬戸田等の塩田が有名であり、広島県は昭和40年代まで、塩田による塩づくりの中心の一つでした。

New 瀬戸内塩業人物伝

第3回 吉井半三郎(よしい はんざぶろう)

吉井氏の先祖は小早川家の家臣で、下市(しもいち、現広島県竹原市)に定着した初代は源兵衛、2代目を又三郎(正次)、3代目を半三郎(当徳)といい、以後半三郎を襲名しています。屋号は「米屋」といいました。吉井家は塩田経営を行う前は、多額の米・銀を貸し付け、利益を得ていました。寛永14(1637)年時点の総貸付額は銀1貫458匁、米16石8斗その他、正保2(1645)年では銀4貫28匁、米43石3斗その他で、その利息は米穀類が年に5~6割、銀は月3~4分の高率でした。また、家の規模でみると寛永15(1638)年の地詰帳には田4反6畝6歩、畠2反6畝18歩、高10石3斗5升3合、屋敷2畝12歩(1軒)の名請人記載がありますが、この持高や屋敷の規模について見ると、貸付額に反して最上層の家柄とはいえませんでした。相当額の資本の蓄積を行った吉井家は、2代目又三郎の代にはその資本をもって塩田経営に乗り出しました。

 

2代目又三郎

慶安3(1650)年になると、竹原塩田開発のブームが起こりました。このブームに乗り、2代目又三郎は塩田経営に進出し、5反9畝と6反6畝12歩の2軒の所有者となりました。また土地集積も行い、明暦3(1657)年には三原屋五郎左衛門にかわって年寄役に就任し、下市の最有力階層に上昇することになりました。以後吉井家当主は明治4(1871)年まで215年の間、30年間を除いて代々年寄役を世襲しました。

 

3代目・4代目半三郎
寛文8(1668)年に2代目又三郎が病死すると、3代目半三郎が跡を継ぎます。寛文10(1670)年には大俵塩問屋として小田屋・阿波屋とともに特権が認められました。吉井家の家業は初期の質店に加え、酒造・塩業と幅広く展開していましたが、この時点で塩問屋が加わったわけです。塩問屋の口銭の過半数を吉井家が占めており、飛躍的な発展をしたことがわかります。

元禄・正徳期(1688~1716)は竹原塩業の最盛期でした。この間、吉井家は廻船業にも乗りだし、塩を出羽や江戸方面に廻送し、その地の米その他の商品と交換取引しました。この頃の所有塩田は、元禄15(1702)年には6軒、享保7(1722)年には9軒に増加しています。

 

5代目半三郎
吉井家はそれまで質店・塩田経営・廻船業・塩問屋・酒造など、多角経営を行い富を蓄積してきました。しかし、5代目半三郎の時代に不況にみまわれます。享保の中頃から十州塩田全体にみられた不況は、塩浜の濫造によるものでした。生産過剰に陥り、塩価が急激に低落していきました。

半三郎はこうした事態に対して、まず廻船業を放棄し、享保10(1725)年に年寄役を別家上米屋半平に譲って家業に専念することにしました。また、享保15(1730)年には命ぜられた御用銀の減額を歎願し、さらに寛保元(1741)年には先祖から差上げた御用銀の一部の返却を歎願しました。吉井家はなんとか持ちこたえ、業態を縮小したまま回復していきました。

その後、宝暦12(1762)年には塩浜4軒、同14(1764)年には一軒の塩浜を手放したため、明和期(1764~1772)には所有塩浜は3軒となっていきました。明和8(1771)年には周防三田尻浜の田中藤六が塩田不況の打開策として休浜替持法を提唱・実施しはじめますが、この年の中浜一軒前の損銀が1貫264匁でした。竹原塩田でも早々に休浜法を実施しましたが、塩田の景気は回復しませんでした。経営困難なため、領主からの拝借銀に依存する状態が続き、明治維新まで藩の保護から脱出し得ませんでした。

 

付記 旧吉井家住宅は竹原市所有となり、平成30(2018)年には市の重要文化財の指定を受けています。吉井家文書については、広島県史編さん事業の一環で調査が行われました。その後、広島大学が主体となって調査が行われ、手書きの仮目録が作成されました。平成18(2006)年には広島県立文書館へ寄託され、その一部が文書館に収蔵されています。詳しい経緯や、同文書については以下の参考文献の西向(2007)をご参照ください。また、一部「吉井家所蔵寛永・正保期大福帳」として『竹原市史』第5巻に翻刻収録されています。吉井家文書を利用した研究については、西畑俊昭氏の「算用帳」の分析などがあります。

小柳智裕(就実大学経営学部准教授)


参考文献
西村嘉助・渡辺則文・道重哲男編『竹原市史』第1巻、概説編、竹原市役所、1972年
西村嘉助・渡辺則文編『竹原市史』第2巻、論説編、竹原市役所、1963年
西村嘉助・渡辺則文編『竹原市史』第5巻、史料編(三)、竹原市役所、1967年
広島県編『広島県史』近世1、通史Ⅲ、広島県、1981年
西向宏介「近世商家の箪笥収納文書-安芸国竹原町吉井家の事例-」『広島県立文書館紀要』第9号、2007年
西畑俊昭『近世入浜塩業の研究』清文堂出版、2013年


これまでの連載はこちら
第1回 野﨑武左衛門(のざき ぶざえもん)(岡山県のページ)
第2回 久米栄左衛門(くめ えいざえもん)(香川県のページ)

塩づくりの歴史

竹原塩田の開発と地蔵菩薩

竹原塩田は、慶安3(1650)年に古浜が開発され、その2年後の承応元(1652)年に新浜が築造された。当時、98軒浜の塩田であった。明暦2(1656)年に実施した地詰(検地)によれば、面積は約61町歩、製塩量は1,110石余りであった。人間1人当たりの塩の摂取量は1斗といわれているので、約1万1,000名分程度の塩を生産していたことになる。この面積は、広島藩領内で最大の塩田で昭和34(1959)年の第三次塩業整備まで続いた。

実は竹原塩田は、開発当初から塩田として開発したわけではなかった。もともとは田畑の開拓地として築造したのであるが、潮気が強いために作物が育たずそのまま放置されていた土地であったのである。この時、竹原の湊に来航していた赤穂の薪船が「こうした土地は塩浜が適地である」と指摘したのを受け、赤穂から技術者を2名招き、試験的に塩づくりをしたところ、良質な塩が生産できたことから、塩田開発に踏み切ったのである。

この塩田開発に尽力したのが代官である鈴木四郎右衛門であった。もともと鈴木四郎右衛門は竹原下市村に常駐していた蔵奉行だった。蔵奉行とは、周辺地域から集められた年貢米を管理、監督するのが役割であった。

こんな話しが残されている。後阿弥という村人がいた。後阿弥の夢の中に地蔵菩薩が登場した。そして、この地蔵菩薩は、地蔵菩薩と建物が朽ち果てており、「(地蔵のために)御堂を建立し、供養すれば、当所が繁昌するようになる」と告げたのである。後阿弥はこのお告げを鈴木四郎右衛門に伝えたところ、「これは珍しい霊夢である。喜ぶべきことである。尊ぶべきことである」と喜んだ。そして後日、鈴木四郎右衛門は地蔵菩薩のところに詣でて、地蔵菩薩の堂を建立したのである。そののち、鈴木四郎右衛門は蔵奉行の役が解かれ、広島城に戻った時に塩田開発を願い出て、塩田開発の許可を受けると再び代官として竹原下市に戻ってきたのである。竹原の塩は白色で濃厚であり、品質がとても優れていたため、たちまち評判となり、全国各地の商船が寄航し、争って塩を求めたといわれている。以来、竹原の塩は、「塩」としてではなく「竹原」として売られている。

塩田開発直後、広島藩の殿様、浅野光晟が江戸から帰国した途中に竹原に寄って塩田開発の現場を視察している。このとき塩田を絶賛し、代官鈴木四郎右衛門は50石の加増を受けたという。

現在も竹原では地元の守り神として地蔵堂が残されている。

落合 功(青山学院大学経済学部教授)

参考文献:「塩田開発期の竹原-瀬戸の海に輝いた塩の町たけはら-」落合功(『広島県郷土史研究協議会機関誌』第36号(近刊))

塩にまつわる人物

本庄重正

慶長12(1607)年、尾張(愛知県)生まれ。諸国を遍歴し、赤穂(兵庫県)に滞在中に塩業を学びました。福山藩で殖産に尽力した後、万治元(1660)年から7年をかけて松永塩田を造成し、「松永の父」と呼ばれました。延宝4(1676)年に亡くなりましたが、晩年の住居の跡には、本荘神社が建てられています。

参考文献:『大日本塩業全書 第一編』

 

鈴木四郎右衛重仍

賀茂郡(現東広島市ほか)の代官。藩に申請して竹原を干拓して耕地を築きましたが、耕作に適さなかったことから、赤穂から塩づくりに精通した人を招き、慶安3(1650)年に31軒の入浜塩田を築造しました。これが竹原塩田のはじまりです。

参考文献:『大日本塩業全書 第二編』、『塩と碑文』水上 清

塩と暮らしを結ぶ運動推進協議会会員

全国塩元売協会会員

  • 備後塩元売株式会社
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